2012年9月12日水曜日

日産自動車創始者「鮎川義介」のルーツ

明治維新以降、萩毛利藩等を中心として山口県内から数々の政財界の英傑が誕生していることは周知の事実である。
 そんな中、日産自動車をはじめとする「日産コンツェルン」創始者が山口県出身者だと言うことは、意外と知られていない。
 その創始者とは、鮎川義介(あゆかわよしすけ)という人物であり、彼の誕生地を示す「石碑」が山口市大内御堀(氷上)の伊達さんという家の敷地内に建てられている。
 


 この度、伊達さん宅を尋ね、奥様から石碑の経緯を聴くことができ、また、庭の一角にある石碑の写真撮影もできた。
 伊達さんの話しによれば、鮎川義介は、明治の元勲・井上馨の姪:仲子を母とし、旧長州藩士:鮎川弥八を父として、明治13年11月6日、現伊達方である山口県氷川郡大内村(現山口市大内御堀氷上)で生れている。
 萩出身の鮎川弥八が山口市に移住した理由は定かでないが、当時、義介の父:鮎川弥八が伊達家の家を借りて住んでいた模様である。
義介一家は、義介が生まれてまもなく山口市内の別の家に転居したらしく、義介はここで育ってはいない。しかし義介は大叔父:井上馨からエンジニアになるよう勧められたことから旧制山口高校卒業後、東京帝国大学工科大学機械科に進んだ。こうしたことから、義介は高校時代まで山口で過ごしていたわけだ。
 大学卒業後は、西欧の状況を体験すべく渡米等して勉強し、1911年(明治44年)、井上馨の支援を受けて福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市戸畑区)に戸畑鋳物株式会社(現日立金属)を創立した。
その後、昭和3年から戸畑鋳物で自動車部品の製造を始め、昭和8年には自動車部を設立、ダット自動車製造大阪工場の買収等を経て、横浜市に自動車製造会社を設立した。

 昭和9年に社名を「日産自動車」に変更し、昭和10年には大量生産方式による第1号となるあの有名な「ダットサン14型セダン」を横浜工場で完成させ、2年間で累計1万台を生産したとのことり、まさに、現日産自動車の産みの親のルーツは山口だと判明したわけでありました。
 なお、同石碑は、、鮎川義介が設立した井上育英会の母体である櫻菱會により、昭和39年5月に建立されたもの。

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